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なんでもありっさブログ

見る・聴く・食べる・歌う、なんでもかんでも!

大東館

3.11 東日本大震災から5年。

 

あのときも金曜日だった。

 

私はあのとき、被災地からは遠い、福岡の九州朝日放送で働いていた。14:46 地震発生時は 福岡の畑で取材中だった。プロデューサーの携帯電話がけたたましく鳴り、東北が大変なことになっていると知った。

 

仙台には祖父母が住んでいた。

母方の親戚は、福島など東北に多くいた。

 

毎日、津波にのまれる東北の凄まじい映像をテレビは伝えた。いろんなことを想像して立ちくらみがした。

 

みんなは大丈夫だろうか。

福岡に居て何もできないことがもどかしかった。

 

 

あれから5年。

震災後はじめて福島県富岡町へ訪れた。

 

昔、遊びにいった親戚の旅館がある。

JR常磐線 富岡駅前

駅のすぐ目の前にある「大東館」

 

最後に遊びにいったのは、およそ20年前。

私が小学生の頃だ。

 

 

ふーちゃんこと、文宏さんは私の母のいとこ。大東館の三代目 オーナー。お兄ちゃんみたいに遊び相手になってくれた。東北訛りが温かくて優しい人。

 

文宏さん一家がいた富岡町は、震災後、津波福島第一原発の影響で、旅館の経営はおろか、住むことさえできない。

 

時間が止まった町が 

震災から5年 ようやく動き始める。

 

「大東館を取り壊すことになった」

そう連絡をもらった。

 

 

私は自分の目に最後の大東館を刻みたいと思った。なんとも勝手だが取材させてもらえないかと頼んだ。

 

本当は取材でいくべきではないのだとわかっていた。こんなデリケートなこと、親戚であっても、土足で踏み込むべきじゃないと思った。

 

しかも私がいる放送局はラジオだ。

テレビなら大東館の映像が永遠に残るが、ラジオで何が残せるだろうか。

 

 

いろいろな葛藤はあったが迷っていてもどうにもならないので、ふーちゃんに連絡してみた。「ありさちゃんの頼みなら」そう言ってくれた。

 

 

文宏さんは東京へ避難して暮らしているが、富岡町の駅前【大東館】で待ち合わせをして会うことにした。文宏さんの母、和子おばちゃんも一緒に。(私の祖母の妹だ)

 

およそ20年ぶりの再会。

2人とも年相応になっているものの、私が小さい頃記憶した顔そのものだった。優しい笑顔が「あらーありさちゃん、久しぶりぃ」と訛る。

 

なんだか、2人の顔を この富岡の町で見たら、それだけで涙が出てきそうになった。(ありがとう)という気持ちがわいた。

 

 

三階建ての大東館は

枠だけが残っている状態だった。

 

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一階は津波の被害を強く受けていた。

地震では窓は一枚も割れなかったのよ』とおばちゃんは話す。ぜんぶ津波の威力だ。

 

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壁を見たらどこまで津波がきたかわかる「染み」があった。フロントの上の方にあった、サッカー日本代表元監督の岡田武史さんが泊まりに来たときの写真は残っていたそうだ。

 

 

残っている思い出の品は取り出し持って帰ったと聞いていたが、どこもかしこも砂や木、泥が乾いた状態のものでまみれていた。

 

それでも、

そんな中でも、

懐かしい大東館の香りがしていた。

 

いろいろなことが思い出された。

 

弟とフロントでかくれんぼしたり

大きい業務用の製氷機の氷をこっそり食べたり

長い棒のキーホルダーに部屋番号がついたルームキーを、宝物みたいに持っていたり

 

 

年季の入った旅館の香りは、記憶の扉を開ける。

 

 

あんなに大きな津波を受けたのに、大東館は生きていると思った。

今でも生きている。

 

 

「ガレキって一言でいいますけど、思い出山ですよね。ぜんぶやっぱり思い出があるものなので」文宏さんの言葉が刺さった。

 

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二階へ続く階段には枕やシーツなどが散乱していて登りにくかった。

途中、解体作業員の人が居て挨拶をした。取材をした1月中旬。環境省の下で解体作業が進んでいたので、文宏さんは自分の旅館であるにもかかわらず許可なく出入りできなくなっていた。今回はそんな中、特別に取材させてもらっていた。

 

三階には、富岡町の【夜ノ森】の写真が大きく通路に飾られていた。

 

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富岡の夜ノ森は桜の名所だった。

今は一部線量が高くて、立ち入ることはできない。震災後も、そこに人がいなくても、桜は綺麗に咲き誇る。

 

引き伸ばされた大きな写真には、昭和50年代くらいの古い型の車が映っている。そうとう昔の写真だろう。こうやってまた桜を愛でられる日はくるのだろうか。

 

大きな美しい写真は避難している今の家には入りきらないので、ここに置いて行くしかないとのこと。

 

 

屋上へあがってみると、辺りを見回すことができた。

 

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津波で流された駅舎はいち早く取り壊されてまっさら。海の方を眺めれば、除染された土が黒い袋に入れられて山のように積まれている。

 

 

町は静かだ。

 

作業員の姿しかない。

 

あの日に大きな傷を負ったまま、5年。

 

ガーゼも当てられぬまま、かさぶたになったような感じ。

 

いろんなものが乾いて色を失っていた。

 

それをちょっとめくると、人が生きていた生々しさが感じられる。

 

 

 

 

文宏さんはいつかまた富岡に戻って来たいと言う。

 

けれど、子どもたちや家族のこともあるし、なかなか難しい。子どもたちも避難地で新しいコミュニティができているし、一概に言うことはできない。

 

「今いるところで、家族みんなで、元気で、笑いながら。なにがあるわけじゃないけど、どこいくわけじゃないけど、一緒に居られることが実はかけがえのないことなんだと思います」

 

それでも富岡への思いがあるから、いつか復興できるために文宏さんはお隣の広野町で共同で宿舎をやっている。それが自分にできることだと言っていた。

 

朝早くから働く除染作業員や廃炉のために第一原発で働く人が、少しでもその疲れをとってもらうために家庭的な雰囲気のある宿舎にしているそうだ。

 

 

 

思い出のつまった大東館は、

先週ついに取り壊されたと連絡をもらった。

 

 

最後に家族みんなで訪れたとき、壁に思いを書いたそうだ。

 

「ありがとう、さようなら」

 

あのスプレーの文字が刻まれた大東館は、みんなの中で永遠に生き続ける。

 

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ラジオでリポートし終えるとふーちゃんからメールがきた。

 

 

「自分の声を、メディアを通して聴くって恥ずかしいね(笑)」と言いながら、「聴いてる人の分だけいろんな大東館が思い描かれて、それってすごいよね」と言ってくれた。

 

伝わっただろうか、

ラジオの向こうのアナタに。

 

「またラジオ聴きます。

笑い声いいよね、本当楽しそうで。」

文宏さんのメールはそう締めくくられていた。

 

 

 

 

いつか夜ノ森でみんなで笑ってお花見できる日がきたら

 

 

目を閉じて あのみんなの大東館を思い出そう。

 

 

ありがとう、さようなら。

 

 

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(2016年1月中旬の夜ノ森)