満員電車に乗ると、
(ああ、自分が布団圧縮袋だったらいいのにな。)
と思うことがある。
ギュウギュウのすし詰め状態が嫌なのはもちろん。
他人と触れ合うのが苦手なのだ。
それが同性同士でも、だ。
むやみやたらに押し付けられる接触というのは
気分がよくない。
だから
少しでも自分の周りだけ、1cmほどの隙間ができるように
自分を圧縮させられたらいいのに。と思う。
よくよく考えれば、
空いた分だけ周りから詰められちゃうので
ギュウギュウの状態から抜け出すことにはならないのだけど。
そんなゴールのない妄想をぐるぐるとしていると、
満員電車のなかで、目の前に私と同じくらいの身長のスキンヘッド男性が目の前に立った。あちらを向いているので、その人の綺麗な後頭部が私の目の前に広がる。
人は、自分の眼で自分の頭をしげしげと見つめることはできない。
だから頭の後ろ側がどうなっているかは、
カメラや鏡を介してでないと、見ることができないし
そのどれもがホンモノではない。
私の目の前に広がった頭は、
頭というより「肌」だったし、
うねうねとしている肌の大地は畑のようだった。
そして、なんといってもこの方には
私の想像のじゃまになる「髪の毛」がないので
すぐそこに脳みそをかんじることができる気がした。
(はっ。生きているんだ)
と感じると、恐怖に似た震えがでてくる。
私たちが日頃、
生きているという感覚を失いがちだからだろうか。
満員電車に乗る全員が生きているのだと感じると
急に怖くなってくる。
それぞれに感情を持ち、
さまざまな意思のもと、行動している。
そらぁ、ちょっと電車が揺れてぶつかったことに関してイライラして怒鳴る人もいるだろう。生きているものをこんなに小さな箱にギュウギュウに詰めるなんて、別の生き物に置き換えて想像するだけでもゾッとする。
それでも無事目的地に着いてしまえば、
苦しかった時間を忘れ、ケロリとしてしまうのが人間のおもしろいところだ。
インターネットを介していると
どうしても対峙しているヒトが「生きている」という感覚を感じにくい。
最近読んでいる大貫妙子さんのエッセイに書いてあった。
「生命力発揚の条件はあくまで、安心立命。その安心感に最初に必要なものが身体接触である。…
略
と言う。それはおとなになっても終生必要なものだと。
日本人は欧米人のハグのように、日常的に抱き合ったりはしないけれども、戦後日本が貧乏だった頃は、狭い家で親子はかさなるように寝て、母親は子供を背におぶって仕事をし…
たしかに。昔の方が、意図せずに触れ合う機会が多かったのかもしれない。
日常でひとに触れ合うシーンは少なくなったなぁ。
小学生のころは男女混合で「相撲」なんてやらされたけど、現代じゃ男女別々なのかもしれない。あの頃やっていたフォークダンスも、大人になって同じような機会はない。
触れ合って安心感を得るよりも先に、
「生きていること」を感じるのは
人が共生していく上で、大事なことかもしれない。
自分も含めて 生き物なのだから
丁寧に扱わないといけない。
スキンヘッドの大地から学んだ
生きてる満員電車。ガタンゴトン。
だからといって
痴漢はよくない!ぜったいに。
今回は、痴漢の話ではないけれど。