1990年、
何もないと思っていた私に
ハガキがあった
by せきしろさん
私も、ラジオを聴くのに夢中になった時があった。そのころの主流はもうハガキよりも「メール」だったが、私の中では、メールよりも「FAX」の方が価値が上だった。
なぜなら、絵を描き添えたり、文字のレイアウトを考えたり、、、読む人がパッとみて面白そうと思うものを考えて送っていたので、明らかに時間を割いている感じがでるからだ。
しかし、明らかに手間をかけているんだけど、番組にお熱になっていることをラジオ局側に悟られるのが嫌で「こんなの朝飯前ですけど?なにか?」みたいな感覚で送っていたのを思い出す。私が高校生くらいのときだ。
月日は流れ、縁あって「ラジオの向こう側」の人をやることになった。あこがれの場所であった。
聴く側からしゃべる側になっても、良いか悪いかは別として、あまり感覚が変わらなかった。それは私が番組のメインパーソナリティじゃないからかもしれない。でも「ラジオに参加している人」という感覚は変わらなかった。
ラジオ局のアナウンサーをしながら、他局の番組にメールを投稿して、たまに読まれたりもしていた(笑)
∞ ∞ ∞
メッセージを送って
それが採用されなかったのと同じように、
しゃべるなかでも
上手くいかないこと、
頭ではわかっているのに思うように表現できないこと、
ヘラヘラつまんないことを言ってる自分に、悔しい気持ちになった。
メッセージが採用されなかった恐怖と
つまんないことをラジオで喋ってしまった恐怖は
なんだか親戚のような感じがした。
意味のないフレーズを口走ってしまって、夜寝るときに限って なぜかそのシーンがフラッシュバックされてもがいたこと。
かたや、予期せぬ化学反応が起こって、自分でもびっくりするほどいい会話や展開が起きたこと。
ラジオの中には、すべてがごちゃまぜに存在している。
綺麗なことばかりじゃない、
しょっぱい思い出が、涼しい顔をしているそのすぐ裏にあって、
でも「そんなこと なんとも思ってないし、平気だし」といった強がりの上に立ってるもんだから、崩れやすくて危なくて。
せきしろさんの本を読んだら
そんな思いが、
芋づる式に出てきちゃって
たまらなくなった。
なぜだろう。
アルミホイルをある程度の長さに切り出して、ぐわーーーーっとクシャクシャにしたい気持ちになった。そのアルミホイルをわざと不快にクシャクシャと大きく鳴らして、泣きたい気持ち。
このひとの書く文章のにおいが、
改めて好きだと思った。
ラジオに限らず、
悔しい思いをしたことがあるひとは
一言に「悔しい」ともいえない複雑な感情を抱くかもしれない。
いろんなことを思い出させてくれる本ではないだろうか。
わたしも、夜明け前の空がみたい。