この世に生を受けて初めて与えられる名前。
理由はなんであろうと、その名が縁あって自分についたことを大切に思いたい。
今この瞬間まで、なんどもなんども呼ばれ続けてきた名前なのだから。
当たり前だが、漢字を含め、この4文字でないと私を表すものではないと認識している。
加納有「紗」でも
加納「亜里沙」でも
「叶」有沙でもない。
ちなみに、とても仲の良い歌手に『叶ありさ』がいる。響きが一緒でも、漢字が違うだけで、思い浮かぶ顔が違うのだから不思議である。
漢字と同じように、
私には自分のアルファベット綴りがある。
「AIissa Kano」と書く。
なんでArisa Kanoじゃないの?
なんかかっこつけてる?
など、様々な意見は今まで散々言われてきた。
私の父は英語の教師をしていて、小さい頃わたしにこの綴りの「AIissa Kano」という名前をくれた。
「海外の人が発音がしやすいから」とかなんとか言っていた気がするけど、はっきりとした理由は覚えていない。
でも、私の中では「加納有沙」という名前と同じように「AIissa Kano」という名前は存在していて、どちらも親がくれた『私』を示す名前であり、=の記号を使って示せるものなのだ。
加納有沙=AIissa Kano
なんのかっこつけでもなく、私を示すものだ。
ある日突然、同じ名前を持つ海外の方の関係者から連絡があった。
名前が似ているため、「歌を歌っているのか?」という問い合わせがたびたび来て困っているという内容だった。
しかも、もしあなたの名前が芸名ならば、名前の表記を変えてもらえないか?という旨まで書いてあった。
わたしは、
一言、ショックだった。
悲しみや怒りに似た、言葉にならない気持ちがわいてどうしようもなくなった。
「歌を歌っているのか」という問い合わせが来るのも、あちらからしたら迷惑な話かもしれないが、「歌っていません」と返事をしてくれればいいだけのことではないのか。
もし私がこの名前を芸名で使っていたとしても、その名前が「私」を表すものとして機能しているわけで、それで私は仕事をしているわけで、他の人の都合で変えられるものではないと思うのだ。
そんなことは少し想像してみたらわかるようなものではないだろうか。。
世界中を見渡してみたら、同じ名前のひとなんて、数えきれぬほどいるだろうし。
自分だけのものではないのだ。
だから、一緒だっていいじゃないか。
生命に関わるほど危険な問題でないならば、受け入れたっていいのではないか。
海外とはいえ、同じ地球に暮らすもの同士。
しかも同じ名前を持つ者として、私は親しみを持って仲良くしていきたかった。
その考え方は、私だけだったのかもしれない。
そう思うと、とてつもなく切ない。
名前は他人の都合で変えられるものではない。
最初は与えられ、そしてその後は自分の意思でどう呼ばれたいか決められるものだと私は思っている。
かつて事務所などの問題で、名前が思うように使えなくなった芸能人が思い浮かんだ。
本名が使えないなんて、なんて酷だろう。
今、どこにもやり場のない寂しさを抱えて、彼女に同情する私がいる。
出会い頭に殴られたような衝撃を受け、眠れずにいるのだけれど、、、
女性が結婚すると名字を変えなければいけないことも、この「名前」問題の根本と一緒なのかなとぼんやり考えている。
自分の意思で選べるようになったら、ハッピーだと思うんだけど。
難しいことじゃないと思うんだけどなぁ。
友人にデザインしてもらった、だいすきな名刺。